天狼星菓

徒歩5分のところに図書館と映画館とカラオケが欲しい

途方もない青春の眩しさに、つい目を細めた あさのあつこ『バッテリー』

 同期が面白いと言っていたから、TSUTAYAの古本ワゴンで見つけて買っておいたもの。別に本のジャンルでアレコレ思うタイプではないと思っていたんだけど、正直ナメていた節はあった。

 

 面白い。あんなに文庫本を開くのが億劫だったくせに、ひとたび読み出すと止まらない。いくつか(というか、ぜんぶ)の場面で印象的だったことを挙げる。

 

 一つ目は、やっぱり豪と巧の出会いとそれから。いつだって、自分のレベルと見合う人間かどうか見定めている巧が、バケツを持つ豪の腕(力)を見初める。豪の性格に惚れたわけじゃない(私だったらまっすぐに褒められた時点でオチている)。

 

「(P.53)こういう顔をして、試合に出るのかと思った。ふっと、言葉が口をついた。」最終的に巧を落としたのは、この表情だったのかもしれない。

 

 私はどちらかというと巧みたいなひねくれ者なので、豪のまっすぐさは正直言って眩しい。底抜けに明るく、悩みなんてないように思える豪は、医者の息子という業を背負ている。「野球をさせてやっている」という、豪の母親の言葉に、とても胸が苦しくなった。私も似たようなことを言われたことがある。「誰が大学に行けなんて頼んだ?」勉強をするのが一番の親孝行だと盲目的に信じていた私を打ち砕いた言葉だ。事実、私の両親は、私の大学合格を一瞬も喜んではくれなかった。

 

 恵まれている。誰しもがどこかで恵まれていて、誰しもが、どこかで何か欠けている。そんなことは分かっているのに、羨ましがったり妬むことを止められない。それが人間の弱さなのかもしれないけれど、そんな簡単に、どうして諦めることなんてできるだろう。

 

 自分をわかってくれる人なんていない、と一人になってしまえば簡単なのに、理解してくれる人間を探し求めて裏切られてはもがき苦しむ。ワトスンを求めてしまう。ぴったりと当てはまるジグソーパズルがあるなんてどこにも保証はないというのに。

 

 巧の複雑さは、自分を見ているようで苦しくなる。私は、カフカの『変身』グレーゴルにひどく感情移入してしまって、だれかトドメのリンゴを放ってはくれないかと毎日考えたこともある。スイスの安楽死団体の入会資格を貪るように読んだこともある(結局その資格は満たせていなかったのだけれど)。しかも、「生きているだけで親不孝」だと自虐的に思い返す。私の腕は傷一つないけれど、精神的リストカットは小学1年生の頃から定期的に行われてきていた。両親の興味は妹に注がれ、顧みられることなんてない。相談しても解決することなんてないから、だれにも相談したことなんてない。誰にも愛されたことなんてない。上っ面だけは良くて、飽きられたらポイ。この劣等感は深く体に刻み込まれて、ふとしたときに牙を剥く。

 

 苦しい。普段、自分を騙して生きている自分の黒い面を、登場人物たちの言動を通して、詳らかに日の元にさらされる。苦しい。これだから、読書はクセになるのだ。

 

 青波と豪が「野球をやめるように」説得してくれ、と頼まれる場面も、「豪じゃなきゃダメだ」と口をついて出る場面も、痛々しいほどにその苦悩は美しい。今までは「関係ない」と逃げてきた巧が、人のために悩むのだ。巧は、新田に来てからの青波の成長ぶりに目を見張って、変わらない自分を思うのだけれど、ちがう、巧が成長したからこそ、青波の変化に気づくことができたのだと思う。

 

 誰だって、自分の成長なんか気づかずに、自分を卑下してしまうことは多々ある。自分を褒めるって、この世で一番難しいんじゃないだろうか。でも、ふとしたときに振り返ってみるのもいいのかもしれない。

 

 つい勢いでギターを買ってしまったのだけれど、弾けるようになりたいなーと考えつつ、この記事を締めくくることにする。